ビフォーアフター社長日記

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人を育てる要諦 ~「聞思修」ではなく「修思聞」~


先日、妙心寺退蔵院の松山大耕副住職のご講演を聞く機会をいただきました。
京都の妙心寺退蔵院には、最近では内外の大企業から人材育成の研修に来られているのだそうです。この禅寺の「人を育てる」仕組みに興味があって、僕は聴講しました。


そのエッセンスを一言でいえば、「聞思修」ではなく「修思聞」いうことだと僕は理解しました。

「聞思修」とは仏教用語で、「セオリーを聞いて学び(聞)、自分で考え(思)、実践する(修)」という、物事の修得の方法を表現したものです。初めて聞いた言葉でしたが、禅の修行はその真逆なのだそうです。

とりあえずやってみる(修)から始まり、最初は教師や先輩に怒鳴られっぱなしで、訳が分からなく失敗ばかりしていても、時間を経ることでいつの間にか自然とできるようになっていって、そこで自分がしていることの意味を考えるようになり(思)、そんな修行が終わってからセオリーや成り立ちを学ぶ(聞)…というのが「修思聞」です。
その修行の時間は立ち居振る舞いににじみ出て、ちょっとした所作を見るだけでその人がどんな修行を、どれくらいの期間を経たのかが分かる人には分かってしまうということでした。


話は変わりますが、去年、参加79か国の学習到達度調査(PASA/2018)の結果が話題になりました。読解力・数学的リテラシー・科学的リテラシーの3分野において、日本は15位、6位、5位でした。
「読解力」に関しては、「教科書が読めない子どもたち」という議論が同じ時期に起こって、教育現場からたくさんの読む力に問題がある旨の報告があがっていました。

79か国中15位というのは低位ではありませんが、教育現場からもその劣化を実感している声があがるということは、その後を受ける仕事の現場にも同じ問題が引き継がれていきます。
もともと日本は日本語単一言語の社会で、言葉のコミュニケーションは比較的取れていて、それが仕事を円滑にしていたと推測できます。さらにそのうえに「修思聞」的な、今でいうとブラックな環境が許容されていたこともあり、何かを集団的に作り上げる産業の品質レベルを押し上げていたと考えられます。

「聞思修」でセオリーから入る方法は、個人ごとに読解力のばらつきが大きくなってくると、座学のセオリーの認識が揃わなくなってきます。
違う認識を持ったまま、自分で考え実践しても、先に進むほど開きは大きくなります。このあたりが多くの事業体で問題になっているような気がします。


今、アフターCOVID19という、新型コロナウイルス感染症以後の世界が語られ始めてきました。き方は変わって、テレワーク主体になると、時間ではなく成果で測るのが標準になっていきます。
今まで見えにくかった読解力の低下からくる成果のばらつきや、集合していることで解消されていた解釈の違いが顕著になってくるでしょう。

この対策は人材育成に「修思聞」を取り入れることではないでしょうか。ちょっとブラック臭はありますが、実践から始めて、見本を見せて、実践の中で師匠の「技」を修得するという方法です。
思い返すと僕自身も身に着けている「技」は、先輩諸氏から教わるともなくやらされ学んできたという自覚があります。現場で失敗し痛い目にあいながら、フィットする勘所を身に着ける。

アフターCOVID19は、迷走しつつあった働き方改革に、本質的な人材育成が組み込まれ、生産性を本質的に上げるフェーズにもっていく必要があると思います。


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